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「無礼講」
そういわれたことはないであろうか。
私は会社の飲み会で言われたことがある。
当然この言葉は信用してはならない。
まず、飲み会というのはアルコールを摂取しているため、酩酊状態であったり騒がしくなる。つまり、理性のタガが外れた状態だ。そんな状態で無礼講だからと無礼なことをしたら滅茶苦茶になる。
また、先輩の「敬語を使わなくてもいいよ」も危険である。
こんなことを言われても敬語になってしまうし、敬語をやめても先輩に言われたからやめただけであり、上下関係に絡み取られるのだ。
サンホラの曲に例えると、運命から逃れたと思ったらそれすらも運命の手の内であった、という感じだ。
カラオケは一番危険だ。
好きな曲を歌えない、昭和の歌ばかり歌うならまだ良い。
しかし、世の中にはカラオケでハラスメントが生じるらしいのだ。
無礼講や、敬語使わなくていいとかいわれても、アナーキーになってはいけない。
ああ、めんどくせ
虐殺器官 感想
9.11のテロの後、先進国は個人情報を管理し、人々は安全と引き換えに自由を引き渡した。一方、後進国では虐殺と内紛が相次いでいた。
今日は故・伊藤計劃氏の小説でありアニメ化もした「虐殺器官」の感想を述べよう。
本作を読んで抱いた感想は、意外に爽快感のある終わり方だな、である。
「虐殺器官」という作品名からして、どこに爽快感があるのかというツッコミがあるだろう。
私が爽快感を抱いた理由は、マザコンが衝撃を受けて世界に八つ当たりするからである。
作戦で多くの命を奪っているのにも関わらず、植物状態となった母親を安楽死させたことを任務遂行中にうじうじと悩んでいる。
しかも、任務中には良心を抑制し、痛みを知覚できるが感じられないマスキングを施しているため、罪を自覚できずにいる。
クラヴィスはヒロインであるルツィアの尻を追いかけまわすが、自分の罪を赦してくれそうだからという理由である。それもルツィアがジョンポールと不倫していたことを知ってである。
そんなクラヴィスであったが、ルツィアは同僚に射殺され、軍人になるきっかけとなった母の視線も全て気のせいであることが分かる。そして、クラヴィスは虚無のままに虐殺文法を広めるのだ。
このどうしようもない八つ当たり感が良い。
一方、マザコンのクラヴィスに対照的な人物としてウィリアムズというキャラクターがいる。
ウィリアムズには妻と子供がいる。彼がルツィアを殺した時の信念は我々読者に近いのではないだろうか。
その信念とは、食べ残したビックマックをゴミ箱に捨てる世界、である。
その世界に正義などあるのだろうかと思うが、我々の生きる世界こそがビックマックをゴミ箱に捨てる世界である。
例えば、チョコレートを安く買えるのは、カカオの生産者を低賃金で労働させられる――労働しているのは子供である――からである。
だが、それでもフェアトレードのように生産者に還元するような努力はなされている。
ウィリアムズというキャラクターは、消費社会の中でのうのうと生きて、見たいものしか見ようとしない私たちのことだ。そして、ジョンポールとウィリアムズは憎しみあい、殺しあう世界と愛する人たちの住む平和な世界とに分けている。
皆さんもこの作品を読んだ後、世界にはまだ課題が残っている、それでも確実に良くなっていると思いながらビックマックを食べきるのはどうだろうか。
日の名残り 感想
「あの時、こうしていれば良かった」
このように後悔したことの無い人間など、この世にいるであろうか。
今回、感想を述べる作品は、カズオ・イシグロ氏の「日の名残り」である。
まず、あらすじから述べよう。
品格を常に意識する老執事のスティーブンスは、短い旅路にイギリスの田園風景を見ながら、自分の人生を思い出す、という話である。
このあらすじを見ると、栄光にまみれた他人の話を読んで何が楽しいのだ、と思うかもしれない。
だが、その感想は物語を全て読むとひっくり返る。
結論を先に述べると、スティーブンスは理想を追いかけるあまり、等身大の自分を常にないがしろにした人間である。
スティーブンスの主であるダーリントン卿は、ナチに共感したことで屋敷のユダヤ人を解雇した。スティーブンス自体は、ユダヤ人解雇に反対だと釈明――この物語は一人称であり、また「信頼できない語り手」でもあるため、本当にそのように思っているかは定かではない――しているが、主には反対という意見を出していない。それも自分は意見するべきではないという理由である。
また、品格のある執事は情欲など抱かないとでもいうように、女中のアピールを無視する、そっけない態度をとるなど、面白いエピソードもある。
スティーブンスの父親が死ぬ場面では、「私は良い父親か」と聞くのにも関わらず、「仕事です」とか「元気でなにより」と会話が合わないことに戦慄を覚えた。
そして、スティーブンスはいろいろ後悔して海辺で泣くが立ち直り、前向きに生きようと思う。
スティーブンスは切実だが事実を語ってはいないだろう。
だが、読者である私たちは、必ずしも世界のすべてを見ることはできないし、意識的であろうが無意識であろうがゆがんだピントを通して「セカイ」をみているのだ。
スティーブンスが「品格」を通して「セカイ」を見ているように。
やはり、私は一人称小説が好きである。
一人称ならではの切実さが好きだし、うそを交えることで真実味が増すのが良いと思った。
以上が感想である。
いい年して、さらに言えば晩年になって自分を見失う老人の話は面白かった。
やはり、小説は面白い。
皆さんも読んでみてはいかがであろうか。
機動戦士ガンダム 感想
1979年、とあるアニメが始まった。
それは機械オタクの少年が巨大ロボットに乗り込み、過酷な戦場を生き抜くロボットアニメ、機動戦士ガンダムである。
これから、機動戦士ガンダムの感想を述べよう。
まず、私はこの作品を見て、終盤――つまりララァが出てきたとき――から地に足が着いていないなという感想を抱いた。
何故、そう思ったのか。
その理由はインド人の少女が出てきて、その話からスピった映像と「ニュータイプ」という概念が突然出てくるからだ。
まず、インドとニュータイプという言葉だけで神秘的なものを私は感じた。そもそもニュータイプの元になったのはニューエイジである。
このように書いているのだが、私はニューエイジのことについては無知である。今後、勉強して説明したい。
閑話休題。20世紀の後半、ヒッピーたちは既存の社会に対抗するため、インドなどの「東洋」を取り入れて反抗したが負け、サブカルチャーを作ったり、ハッカーとくっついてコンピューターカルチャーを作ったりした。
つまり、時代背景を考えればスピった映像とニュータイプという概念が出てくる事に驚きはない。ただ、私はオウム以後の世界に生まれたため、このスピリチュアルなシーンや概念に惹かれつつも、距離をとるのだろう。
ただ、ニュータイプの概念がオウム的になったのは続編の機動戦士Zガンダムからであろう。まだ全て見ていないが、最終話で主人公が「殺すのがこいつのため」という理屈で敵の命を奪っているため、ここから人々のニュータイプのイメージが狂ったのだろう。
次に私が感心した部分について話そう。
私が感心したことは、戦闘シーンは格好いいがアムロを取り巻く物語は苦い話であることだ。
戦闘シーンは、ガンダムの性能もあってか初めのうちもやはり強い。物語が佳境に突入すると、アムロのニュータイプへの覚醒もあり、どんどん戦闘シーンのテンポも良くなる。だんだん、この辺からアムロは敵機を撃ち落とすとき、敵の数を数えながら片付けていくので、「アムロ、強くなったじゃん」と思いつつも敵に同情するようになる。
ただ、アムロは強くなったからと言って、心から求めているものを手に入れたわけではない。
彼が心から求めているものとは何なのであろうか。
それこそアムロが求めたものである。しかし、彼が見つけた居場所は滅茶苦茶辛いことも嬉しいこともあった――ただし、嬉しいことはあまりないと思う――ホワイトベースと仲間たちだ。
求めていたものはすでに存在しないが、別の大切なものを見つけられた、この大人の苦みこそが私が感心した部分だ。
以上が、ガンダムの感想だ。
次はZガンダムを見たい。いや、イデオンかなぁ。Vガンダムかな。
どれでも良い。全部見よう。
読者の皆様も見てみてはいかがであろうか。
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「サイコパス」
最近、私はこの言葉を聞く機会が多い。
理解できない、また拒絶したい人への悪口、侮蔑の言葉としてよく聞く。
何故、悪口として使うのだろうか。
そもそも、サイコパスとは何であろうか。
答えはインターネットや本などで見ることができる。
サイコパスは現在、反社会性パーソナリティ障害といわれる障害である。
ここまで読んで何か既視感を抱いた読者も多いことだろう。
人を病気や障害でバカにする、こういう風潮はネットでよく見るのではないのであろうか。
ここまで話を進めて分かったことがある。
歴史を勉強すれば、障害や病気で人が人を差別してきたことが分かる。
例えば、ハンセン病は多くの人が差別されたし、障害を持つ人を強制不妊手術をする旧優生保護法という法律は、本邦では1996年まで施行されていた。
この歴史を背景とした悪意とネット上の悪意には決定的な違いがある。
それは、「サイコパス」はネットスラングとして使われるということである。
これで答えが出る。
ネットスラングであるから、「草」とか「www」のように現実で使う人はいない、というかイタイのだ。
何故、「サイコパス」を悪口として使うのか、それはイタイからだ。
もちろん、イタくないとしてもやみくもに使っていい言葉ではない。
また、イタイだけならまだ可愛いが、誤った使い方で悪意を伴った言葉は突然変異するウイルスのように多くの人に広まる。
火が人間の発見した道具なら、言葉は人間の発明した道具である。
私たちは「言葉」という突然変異を繰り返し、伝わっていく厄介な発明品と格闘して生きていくのだ。
亜人 考察
今回、紹介する漫画は「亜人」だ。
一応説明をするが、亜人といってもエルフやドワーフとか、亜人ちゃんではない。
絶対に死ぬことはない生物のことだ。
まず、あらすじから説明していこう。
高校生の永井圭は、下校中にトラックに轢かれて命を落とす。
しかし、圭は復活し、日本政府と国民や友人、そして同じ亜人から狙われる。
以上が亜人のあらすじにあたる。
この漫画を読んでみての感想は、亜人を捕まえたら1億円もらえるくだりはさすがに有り得ないだろうと思った。なぜなら、昨今の社会をみれば1億円をもらえるのなら人間狩りをやる描写にリアリティはないからだ。ただ、物語が進むにつれて亜人の扱いは「不死身なのは気持ち悪いけど、可哀想だよね」といった扱いになった。
ただ、この漫画のリアリティはないわけではない。
例えば、この作品では作中世界の有名人である政治家や教授が亜人の危険性を作中の日本国民に煽り立てる描写は説得力がある。
だが私は現実味のある描写に魅力を感じたのではない。
亜人の不死身とは何なのか、それに魅力を感じたのである。
まず、結論から言おう。亜人の不死身とは自身の人生の渇望であると私は考えた。
なぜならば、作中の死亡描写のある亜人たちは――ただし、佐藤を除いて――自分の人生を生きられていないからだ。
主人公の圭は、妹の病気を治すために医者になることを誓い、勉強している。しかし、彼は自らが亜人であることが判明し、健康的で文化的な最低限度の生活を守るために佐藤と戦う決意をしたため、自分の人生を生きてはいないだろう。
また、下村も母方の墓前で逃げないことを決意するが、彼女の本名は田井中陽子である。下村もまた自分の人生を生きてはいないだろう。
中野の戦う理由は、自分に生きる意味を与えてくれた人の役に立ちたいからである。だが、中野は自身の無力さを知っているため、彼一人では自分の人生を生きられない。
田中は始めこそ人類への復讐のために戦っていたが、今では佐藤を倒しけじめをつけるために戦っている。
彼らは、まだ人生を歩めていないだろう。自身の人生を歩めていないのだから、彼らは生きていない。生きていないから死ぬこともないのである。
そして、自分の人生を歩むために何度でも自分の人生を心から望み、彼らは甦るのだ。
以上が私の感想および考察だ。
興味を持ったのならば、ぜひ読んでみて欲しい。
面白いかどうかは「見ればわかる」
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大学生活をどう思う?
大学デビュー? リア充? 充実したサークル活動?
今日、書くのはそんなものではない。
今日は、自堕落でだらしない男女大学生のオバカコメディ
「惰性67パーセント」について語っていきたい。
まず、この漫画で私が魅力に感じたことは自堕落な大学生を描いていることだ。
この漫画は、美大に通う主人公「吉澤みなみ」が友人とともに酒を飲んだり、ご飯を食べたり、下品なネタで盛り上がったりするという内容のものだ。つまり、この漫画は美大生が主人公なのに、主人公が真面目に絵を描くシーンが少ないのだ。
これで、この漫画の主人公、吉澤がいかに自堕落なダメ大学生であることが分かるだろう。
しかし、私がこの漫画で一番惹かれた部分は絵である。
それでは、絵のどこに惹かれたのか。
私は、この漫画に登場する女性キャラクターの生活感を感じられる絵が好きなのである。
どこが好きなのか?
黒目を基調に白い光が入った目、つまりキラキラしすぎていない。
無駄な肉やしわが入っている絵のタッチ、といった具合にだ。
つまり、妙に生々しいのだ。
この生々しさこそがこの漫画に宿る魅力だと私は思う。
生々しさによって、キャラクターには生活感が生まれ、生活感がキャラクターの自堕落さのリアリティの根拠となる。
以上が、私の感想である。
興味を持ったのならこの漫画を「惰性」なり「真剣」なり、読んでみてはいかがだろうか?