善意は断れない
最近、マスク会食なるものが提唱されている。
だが、マスク会食は賛否両論がある。
例えば、いちいちマスクを外すのは面倒であるとか、食べるときに外して、それ以外は食べるとかいろいろな意見がある。
しかし、大事なことを忘れていないだろうか。
現在、マスクと言えば不繊布マスクだろう。このマスクは顔の形に合わせて付けるものであるが、一度外してしまえば構造が崩れてしまうため意味がない。
また、マスクを手で触れば、手のせいで汚染されるため、衛生的に考えて、マスクは一回きりで使ったほうが良い。
ところが、このマスク会食、そんなことを考えていないように思う。私はこのことから、日本人は理科が弱いのではないのか、そう思った。
何故、そう思ったのか。
最近はひどいニュースがあった。
まず、もやウィンである。
謎のキャラにダーウィンが言っていないことを言わせ、進化で変化するものが生き残ると言わせ、挙句の果てには政治と絡ませる、といった内容である。
ツッコミどころが満載。どこから突っ込めばいいのかわからない。
次に組体操だ。
まず、あれだけピラミッドを高くすれば、下の子の負担はえらいかかる。あれだけの高さで崩れればケガもするし、後遺症も出るだろう(というか出た例はある)。
また、大人の世界ではあれだけの高さでは絶対安全具とかを付ける(というか付けなきゃ怒られる)。
組体操に関しては感動する教師と親が悪い。何感動しているんだよ、手前のガキの心配でもしやがれ。
親学は何が一番問題視されているかと言えば、「伝統的な教育で発達障害は治せる」であろう。
そもそも、現在の医学の見解では先天的になるものだ。治せるわけがない。
第一、発達障害で負うハンデを解消するなどの努力を社会が担わなければならないのだろう。それに、障がいを持っている人たちを、不妊手術している歴史があるではないか。「伝統的な教育で発達障害を治せる」は都合のいいノスタルジーでしかない。
ゲーム脳は、提唱者の経歴、脳みその知識を調べれば嘘だとわかるし、結論同士が矛盾しているので、科学的には認められていない。
傘かしげというものが江戸しぐさで教えられているが、江戸時代の傘は現代の傘と違ってすぼめやすい。つまり、傘を傾けるよりもすぼめたほうが相手にはかからないのだ。
だから、江戸しぐさは全くのでたらめだ。
これらの共通点とは何なのであろうか。
それは「善意」だ。これらの目的は大人の思う子供になってほしいということだ。
マナーを教えたければ、現在のマナーを教えればいい、下手に権威付けようとするのがいけない。組体操に関しては、親や教師が感動するのでなく、子供たちがやって良かったと思えることが大事だ。
まぁ、人間は権威にすがりたいし、愛と欲望を混同しやすい生き物だからね。
「祝い」は「呪い」に変わるし、地獄への道は善意で舗装されている。
それを肝に銘じたい。