機動戦士ガンダム 感想

 1979年、とあるアニメが始まった。

 それは機械オタクの少年が巨大ロボットに乗り込み、過酷な戦場を生き抜くロボットアニメ、機動戦士ガンダムである。

 これから、機動戦士ガンダムの感想を述べよう。

 

 まず、私はこの作品を見て、終盤――つまりララァが出てきたとき――から地に足が着いていないなという感想を抱いた。

 何故、そう思ったのか。

 その理由はインド人の少女が出てきて、その話からスピった映像と「ニュータイプ」という概念が突然出てくるからだ。

 まず、インドとニュータイプという言葉だけで神秘的なものを私は感じた。そもそもニュータイプの元になったのはニューエイジである。

 このように書いているのだが、私はニューエイジのことについては無知である。今後、勉強して説明したい。

 閑話休題。20世紀の後半、ヒッピーたちは既存の社会に対抗するため、インドなどの「東洋」を取り入れて反抗したが負け、サブカルチャーを作ったり、ハッカーとくっついてコンピューターカルチャーを作ったりした。

 

 つまり、時代背景を考えればスピった映像とニュータイプという概念が出てくる事に驚きはない。ただ、私はオウム以後の世界に生まれたため、このスピリチュアルなシーンや概念に惹かれつつも、距離をとるのだろう。

 ただ、ニュータイプの概念がオウム的になったのは続編の機動戦士Zガンダムからであろう。まだ全て見ていないが、最終話で主人公が「殺すのがこいつのため」という理屈で敵の命を奪っているため、ここから人々のニュータイプのイメージが狂ったのだろう。

 

 次に私が感心した部分について話そう。

 私が感心したことは、戦闘シーンは格好いいがアムロを取り巻く物語は苦い話であることだ。

 戦闘シーンは、ガンダムの性能もあってか初めのうちもやはり強い。物語が佳境に突入すると、アムロニュータイプへの覚醒もあり、どんどん戦闘シーンのテンポも良くなる。だんだん、この辺からアムロは敵機を撃ち落とすとき、敵の数を数えながら片付けていくので、「アムロ、強くなったじゃん」と思いつつも敵に同情するようになる。

 ただ、アムロは強くなったからと言って、心から求めているものを手に入れたわけではない。

 彼が心から求めているものとは何なのであろうか。

 アムロララァから守るべきもの、戦う理由がないと言われた。

 それこそアムロが求めたものである。しかし、彼が見つけた居場所は滅茶苦茶辛いことも嬉しいこともあった――ただし、嬉しいことはあまりないと思う――ホワイトベースと仲間たちだ。

 求めていたものはすでに存在しないが、別の大切なものを見つけられた、この大人の苦みこそが私が感心した部分だ。

 

 以上が、ガンダムの感想だ。

 次はZガンダムを見たい。いや、イデオンかなぁ。Vガンダムかな。

 どれでも良い。全部見よう。

 読者の皆様も見てみてはいかがであろうか。

 

第1話 ガンダム大地に立つ!!

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  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video