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井の中の蛙大海を知らず、という言葉がある。
この言葉は中国の紀元前の思想家、荘子が遺したありがたい言葉である。
因みに、似た立場である老子のこの言葉の解釈は、そもそも井の中の蛙は井の中が性に合っており、大海を知らなくても生きていけるさ、という風になる。
これらの言葉から抱いた感想は、価値観は本人によって異なるが、価値観の許容は難しいよねと思った。
何故、価値観の許容は難しいのであろうか。
それは、社会は法律というシステムと絶対的な価値観を人々に押し付けることで成立するからである。
社会が存在することのメリットを考えてみよう。
お互いのことを知らないもの同士が協力することである。
これは、非常に良い。例えば、あなたが病気で働けなくなったとしよう。あなたはこのまま餓死してしまうのか。答えは否だ。見ず知らずのあなたのために誰かの税金があなたの命を繋ぎとめる。
それでは、社会が存在することのデメリットは何なのであろうか。
それは、クズ人間が増えることだ。
詳しくは宮台真司氏のネット記事などを見るといいが、氏の語ったことを要約すると社会は見ず知らずの人の集まりである⇒すると、見ず知らずのグループ間で紛争が勃発⇒解決のため、法律に頼る
御覧の通り、自分のグループに所属する人を守るために法律を行使するのだ。
だが、グループに属せない人が法律を盾に好き勝手いう時代が現代であると氏は言う。
また、氏は追加の説明をする。社会が良くなれば世界は良くなるという考えは間違いであり、一人一人がどう生きるかのほうが大切、と。
この法律や社会を絶対視するな、という考えは非常に納得できる。
例えば、警察は正義の味方ではなく、あくまで秩序の番人だ。
なぜなら、警察は治安維持のためならば、弾圧側に回るからである。
また、わが国には1996年まで優生保護法が存在した。
この法律は今でこそ非難されるが、当時は国家が推奨していた。
つまり、無批判に法律や社会を妄信するものが、クズ人間であると氏は言いたいのだろう。
社会は、何故に価値観を絶対視して人に押し付けるのだろうか。
その答えは社会が存在するためだ。
例えば、資本主義が信じられている社会で、大多数の人々が一斉に資本主義を信仰するのをやめたら、その社会は崩壊する。
では、価値観を相対化するにはどうしたら良いか。
答えは簡単。伊藤計劃氏の「セカイ、蛮族、ぼく。」を読もう。
この作品はとても面白い。だって、主人公が野蛮な行動を嫌うのに、いちいち下品な行いをしては、ずっと自己嫌悪をしているからだ。
自己嫌悪するくらいなら下品な行動しなければ良い、その考えは浅はかだ。
なぜ、主人公は野蛮を嫌うのにしてしまうのか、それは彼に品性が存在しないからだ。品性が存在しないゆえに、下品な行動をとるのだ。
陰キャにしてもそうだ。何故、陽キャになれないのか。そもそも、どんなに自己卑下しても、陰キャである自分にプライドを持っているからだ。おまけに陽キャになる努力の方向性を間違えるから、シャレにならない。タクシードライバーで女性をポルノ映画に誘ったトラヴィスみたいに。
因みに、価値観の相対化は実社会では難しい。
既存の価値観にケチつけるなんて思いっきりアウトローだからだ。
だが、やってみる価値はある。
人は誰だって何らかのマイノリティだからだ。
自分らしく生きるために、既存の価値に喧嘩を売る。
私はそんな生き方をしたい。