現実 何それ美味しいの

 私は最近、真三國無双7empiresをプレイしている。

 そして、最近「新解釈・三國志」の予告がyoutubeにあがっている。

 ところが、ちくま学芸文庫から発売されている「正史 三国志」はそれほど取り上げられていない感じがする。

 

 これに該当するのは何も三国志だけでなく、全ての歴史ものなのではないのであろうか。例えば坂本龍馬で思い浮かべるのは司馬遼太郎の書いた坂本龍馬だろう。坂の上の雲を知っていても、日露戦争はよく知らない。今川義元のイメージは蹴鞠だ、とか。

 

 これらのように歴史書は売れないが、歴史の物語は売れる。何故だろうか。

 答えは単純だ。人は物語が大好きだからだ。

 

 この結論に対して、私は物語は好きではないとか、物語が好きだなどの返答は求めていない。

 私がなんの意味で物語が大好きと言ったか。物語とは我々が生きているこの瞬間のことである。人の話を聞くとき、ふいに違和感を抱かないだろうか。なぜ、口の動きと声が一致するのかと。音と光は伝わる速さが異なるため、別々に見たり聞いたりするはずである。

 それでは、何故同時に見聞き出来るのか。それは脳が編集するからだ。

 脳が編集する時点でそれは真の現実と言えるのか。

 また、私たちが何かを見る際に焦点を合わせるだろう。焦点を合わせたところははっきり見えるが、それ以外のところはぼやけて見えるだろう。ところがカメラで撮ったらすべてがはっきり見られる。

 これらのおかげで私たちは何かを見聞きするときに分かりやすくて助かる。

 

 だが、自分たちの生きている世界が物語だなんて信じられない、そう返す気持ちも分かる。

 だが、法律も約束事も株式会社も因果関係も全て人間の考えた物語だ。

 私は、人は物語をなぜ大好きなのか、信じるのか考えた。

 それは人生に意味を見出すためだ。

 まず、人生とは厄介なものである。人生に意味やテーマなどない。なぜなら、生まれてくる前に自分の人生の目標を立てる人間などいないからだ。

 それでは、人はいつ人生に意味を見出すのだろうか。もちろん生きている間である。生きている間にこんな生き方をしたいなと思って生きるのだ。つまり、何かのために生きるのではなくて、生きていること、今の自分は正しかったと肯定するために人生の意味を見出すのだ。そのくせ、生きていることを肯定するために目標を持っているのに、目標がかなえられないと、生きていることを肯定できなくなるから、なかなか面倒くさい話だ。

 

 この生きていること、今の自分を肯定するために生きていることは、理性的な行いではない。目的のために生きているのであって、生きるために目的を持っている、と。

 だが、今の自分は正しくなかったと思いながら生きるよりは、今の自分は正しかったと生きるほうが健康的だし、面白い。

 

 なぜ、我々は物語を好むのか。

 誰だってつまらないものは嫌いだし、面白くて健康的なほうが好きだからだ。