天気の子に怒りたい!!
今日紹介するのは「天気の子」と「ようこそ実力至上主義の教室へ」である。
2019年に公開された映画「天気の子」は、2016年に日本中に大ヒットした「君の名は。」の新海誠監督の作品である。
まず、この作品を見て私は面白いと思ったのだが、何やら引っかかるところがある。
何が引っかかるのか?
実のところ私は映画をリアルタイムでは見ずに、新海監督のインタビューを見ていたところ、興味深いことを言っていた。
これを読んでいる皆様にはお手を煩わせるが、自分で調べて見て欲しい。
googleで「天気の子 怒らせたい」と検索すれば、記事を見ることができるぞ。
つまり、監督は怒らせたいらしい。
ん?あの映画のどこに怒る要素があるんだ?
あの映画のどこに怒る要素があるんだ?
大事なことなので2回言いました。
私はこの映画を見ても怒れなかった。
怒ったポイントはあるにはあるが、新海監督が想像もしなかったところだろう。
帆高君は占いのおばあちゃんの話を「ラノベみたい」と言っていたが、お前の家出劇も充分にラノベじゃい!!
ヒロインが2人以上いるし、好感度が高いしからなぁ。それに監督はエロゲ畑出身だからなぁ……
トモセシュンサクもエロゲの絵とラノベの絵を描いたりするしなぁ……
因みによう実って2年生編ですごいことになってるんですよねぇ。僕は1年生編の途中までしか読んでないのでアニメに期待だ。
亜人って面白いなぁ
漫画って良いよね。
読み直すたびに新たな発見がある。
ということで今回は「亜人」を紹介する。
亜人の魅力は心理描写と緻密な話の構成である。
まず、後者から話を進めよう。
亜人3巻で圭と佐藤が研究所で戦っているとき、IBMが衝突し、互いの記憶と精神状態が交差したシーンがある。
そのとき、佐藤には圭の記憶(海斗との逃走)と精神状態(恐怖)が、圭には佐藤の記憶(謎の外国人)と精神状態(平常心と高揚感)が伝わった。
この謎の外国人の正体は7巻で佐藤の父親であり、佐藤の本性が明かされる話でもある。
他にも亜人14巻でゲンが人間であることが明かされるが、4巻の時点で佐藤のIBMに気づかない、sat戦以降鼻の傷がそのまま、など伏線というかしっかり描写している。
つまり、この漫画は読む者のリテラシーと読解力が試される漫画であるということだ。
伊藤計劃が、映画とは見る者の知覚や知識によって面白さとか持ち帰るものが変わると言ってたやつだ。
ということで、心理描写の話をしようと思う。
この作品の心理描写は他の漫画とか小説によくある登場人物の心の声がかなり少ない。
どちらかというと、人物の表情や目を描くことで伝える映画的な表現だ。
やはり、この漫画は読解力を要する漫画なのだ。
さらに、心理描写をややこしくしているのが主人公の永井圭である。
この主人公の言動を先ほどの表現方法に気を付ければ、3、4巻の時点である程度性格の把握は可能だ。
ということで、私なりに主人公の性格を読み解いていこうと思う。
3巻で主人公が研究員を助けるときに、彼のIBMが「一人で可哀想だから、かまってやってた」と言うシーンがあるが、圭はこの言葉を聞いた瞬間、目を見開き、「そんな昔のこと言わないでくれよ」という。この時点で圭は海斗に酷いことを言ったと自覚し、後悔しているというように考えられる。
4巻で攻に研究員を助けた理由を聞かれたときに、一瞬間があいてから(漫画の中では圭の無言のコマがあるだけである)それについては理由を考えていたけれども、利用価値の有無で助けたと説明している。
だいぶ、この時点で圭が合理的で鉄のように冷たいという妹の評価が怪しくなる。私はこの時点で、圭はただ単に理屈っぽいだけではないかと思った。
6巻で、平沢に何故自分が合理的にふるまうようになったかを身の上を通しながら説明するシーンがあるが、9歳のころに父親の失敗を見たから、合理的に振舞うようになったと推測できる。
10巻では母が登場し、圭は冷たいのではなく合理的なだけと説明が入った。さらに圭は母親似で合理的だと説明があるが、私は違うと思う。
そのときに海斗と何故縁を切ったのかが明らかになる。
9歳の時に医者になって妹の病気を治すと母に表明する。海斗は犯罪者の息子だから、圭の医者の道に邪魔になるから縁を切る。
父親も妹も9歳でつながっている。ここで、私は母親似で合理的だという圭の母の言葉を疑問に思った。
圭は9歳の時に感情的な父親の失敗をみて、合理的に振舞い始め、妹の病気を治す表明をするときに「一人で可哀想だから」と言ったのではないのだろうか。
つまり、圭は感情的な人間が合理的に振舞ってるだけだと言える。
ただ、このような心理描写は危険な真似だと私は思う。下手したらブレブレだと思われるからだ。
だが、この表現で良いと思う。
亜人のリアリティを保つためにこのような心理描写をしたのではないのだろうか。
人は自分のことを完全に分かってないし、親、ましてや他人なら理解のブレがあるに決まってる。こいつはこういう人間だと言い切るほうが浅いと私は思う。
岡田斗司夫の心理デッサン、心理デフォルメ論を思い出した。
亜人はやはり興味深い。亜人のおかげで登場人物に感情移入しなくても面白い作品があるのかと気づけたし、読めば読むほど面白くなる。
ということで滅茶苦茶お薦めです。
がっこうぐらし! 感想
皆さんは漫画の実写化をどう思いますか?
私は良いと思います。
そう思わせてくれた作品が「がっこうぐらし!」です。
何故、実写化が反対されるのか。
キャストが合わない、コスプレ、演技が下手……etc
この作品は確かに演技が稚拙だなと思うところはありました。
しかし、作り手が原作をよく咀嚼して作ったんだなと思いました。
まず、キャストとキャラクターが良く噛み合っているなという印象でした。
原作を見ればわかりますが、皆有り得ない髪の毛の色をしています。
しかし、この実写では髪の毛は黒にしています。
この安易に側を作らないのは、非常に良く感じました。
本作品を見て感じたことは、日常を描けているなということです。
原作を読めばわかりますが、この作品自体はゾンビのいる学園ものです。
学園という箱庭で暮らしている3人の少女たち、外部からやってきて順応する少女。
少女が外部から来たことで関係性も変化し、トラブルが起きて、お互いをカバーしながら解決して卒業する。
終末を迎えた世界で日常を送り、外部に出て「かれら」や生存者と遭遇するかもしれないという終わり方はゾンビものとしても見れるし、日常ものとしても見れるなと思いました。
善意は断れない
最近、マスク会食なるものが提唱されている。
だが、マスク会食は賛否両論がある。
例えば、いちいちマスクを外すのは面倒であるとか、食べるときに外して、それ以外は食べるとかいろいろな意見がある。
しかし、大事なことを忘れていないだろうか。
現在、マスクと言えば不繊布マスクだろう。このマスクは顔の形に合わせて付けるものであるが、一度外してしまえば構造が崩れてしまうため意味がない。
また、マスクを手で触れば、手のせいで汚染されるため、衛生的に考えて、マスクは一回きりで使ったほうが良い。
ところが、このマスク会食、そんなことを考えていないように思う。私はこのことから、日本人は理科が弱いのではないのか、そう思った。
何故、そう思ったのか。
最近はひどいニュースがあった。
まず、もやウィンである。
謎のキャラにダーウィンが言っていないことを言わせ、進化で変化するものが生き残ると言わせ、挙句の果てには政治と絡ませる、といった内容である。
ツッコミどころが満載。どこから突っ込めばいいのかわからない。
次に組体操だ。
まず、あれだけピラミッドを高くすれば、下の子の負担はえらいかかる。あれだけの高さで崩れればケガもするし、後遺症も出るだろう(というか出た例はある)。
また、大人の世界ではあれだけの高さでは絶対安全具とかを付ける(というか付けなきゃ怒られる)。
組体操に関しては感動する教師と親が悪い。何感動しているんだよ、手前のガキの心配でもしやがれ。
親学は何が一番問題視されているかと言えば、「伝統的な教育で発達障害は治せる」であろう。
そもそも、現在の医学の見解では先天的になるものだ。治せるわけがない。
第一、発達障害で負うハンデを解消するなどの努力を社会が担わなければならないのだろう。それに、障がいを持っている人たちを、不妊手術している歴史があるではないか。「伝統的な教育で発達障害を治せる」は都合のいいノスタルジーでしかない。
ゲーム脳は、提唱者の経歴、脳みその知識を調べれば嘘だとわかるし、結論同士が矛盾しているので、科学的には認められていない。
傘かしげというものが江戸しぐさで教えられているが、江戸時代の傘は現代の傘と違ってすぼめやすい。つまり、傘を傾けるよりもすぼめたほうが相手にはかからないのだ。
だから、江戸しぐさは全くのでたらめだ。
これらの共通点とは何なのであろうか。
それは「善意」だ。これらの目的は大人の思う子供になってほしいということだ。
マナーを教えたければ、現在のマナーを教えればいい、下手に権威付けようとするのがいけない。組体操に関しては、親や教師が感動するのでなく、子供たちがやって良かったと思えることが大事だ。
まぁ、人間は権威にすがりたいし、愛と欲望を混同しやすい生き物だからね。
「祝い」は「呪い」に変わるし、地獄への道は善意で舗装されている。
それを肝に銘じたい。
■
井の中の蛙大海を知らず、という言葉がある。
この言葉は中国の紀元前の思想家、荘子が遺したありがたい言葉である。
因みに、似た立場である老子のこの言葉の解釈は、そもそも井の中の蛙は井の中が性に合っており、大海を知らなくても生きていけるさ、という風になる。
これらの言葉から抱いた感想は、価値観は本人によって異なるが、価値観の許容は難しいよねと思った。
何故、価値観の許容は難しいのであろうか。
それは、社会は法律というシステムと絶対的な価値観を人々に押し付けることで成立するからである。
社会が存在することのメリットを考えてみよう。
お互いのことを知らないもの同士が協力することである。
これは、非常に良い。例えば、あなたが病気で働けなくなったとしよう。あなたはこのまま餓死してしまうのか。答えは否だ。見ず知らずのあなたのために誰かの税金があなたの命を繋ぎとめる。
それでは、社会が存在することのデメリットは何なのであろうか。
それは、クズ人間が増えることだ。
詳しくは宮台真司氏のネット記事などを見るといいが、氏の語ったことを要約すると社会は見ず知らずの人の集まりである⇒すると、見ず知らずのグループ間で紛争が勃発⇒解決のため、法律に頼る
御覧の通り、自分のグループに所属する人を守るために法律を行使するのだ。
だが、グループに属せない人が法律を盾に好き勝手いう時代が現代であると氏は言う。
また、氏は追加の説明をする。社会が良くなれば世界は良くなるという考えは間違いであり、一人一人がどう生きるかのほうが大切、と。
この法律や社会を絶対視するな、という考えは非常に納得できる。
例えば、警察は正義の味方ではなく、あくまで秩序の番人だ。
なぜなら、警察は治安維持のためならば、弾圧側に回るからである。
また、わが国には1996年まで優生保護法が存在した。
この法律は今でこそ非難されるが、当時は国家が推奨していた。
つまり、無批判に法律や社会を妄信するものが、クズ人間であると氏は言いたいのだろう。
社会は、何故に価値観を絶対視して人に押し付けるのだろうか。
その答えは社会が存在するためだ。
例えば、資本主義が信じられている社会で、大多数の人々が一斉に資本主義を信仰するのをやめたら、その社会は崩壊する。
では、価値観を相対化するにはどうしたら良いか。
答えは簡単。伊藤計劃氏の「セカイ、蛮族、ぼく。」を読もう。
この作品はとても面白い。だって、主人公が野蛮な行動を嫌うのに、いちいち下品な行いをしては、ずっと自己嫌悪をしているからだ。
自己嫌悪するくらいなら下品な行動しなければ良い、その考えは浅はかだ。
なぜ、主人公は野蛮を嫌うのにしてしまうのか、それは彼に品性が存在しないからだ。品性が存在しないゆえに、下品な行動をとるのだ。
陰キャにしてもそうだ。何故、陽キャになれないのか。そもそも、どんなに自己卑下しても、陰キャである自分にプライドを持っているからだ。おまけに陽キャになる努力の方向性を間違えるから、シャレにならない。タクシードライバーで女性をポルノ映画に誘ったトラヴィスみたいに。
因みに、価値観の相対化は実社会では難しい。
既存の価値観にケチつけるなんて思いっきりアウトローだからだ。
だが、やってみる価値はある。
人は誰だって何らかのマイノリティだからだ。
自分らしく生きるために、既存の価値に喧嘩を売る。
私はそんな生き方をしたい。
現実 何それ美味しいの
私は最近、真三國無双7empiresをプレイしている。
そして、最近「新解釈・三國志」の予告がyoutubeにあがっている。
ところが、ちくま学芸文庫から発売されている「正史 三国志」はそれほど取り上げられていない感じがする。
これに該当するのは何も三国志だけでなく、全ての歴史ものなのではないのであろうか。例えば坂本龍馬で思い浮かべるのは司馬遼太郎の書いた坂本龍馬だろう。坂の上の雲を知っていても、日露戦争はよく知らない。今川義元のイメージは蹴鞠だ、とか。
これらのように歴史書は売れないが、歴史の物語は売れる。何故だろうか。
答えは単純だ。人は物語が大好きだからだ。
この結論に対して、私は物語は好きではないとか、物語が好きだなどの返答は求めていない。
私がなんの意味で物語が大好きと言ったか。物語とは我々が生きているこの瞬間のことである。人の話を聞くとき、ふいに違和感を抱かないだろうか。なぜ、口の動きと声が一致するのかと。音と光は伝わる速さが異なるため、別々に見たり聞いたりするはずである。
それでは、何故同時に見聞き出来るのか。それは脳が編集するからだ。
脳が編集する時点でそれは真の現実と言えるのか。
また、私たちが何かを見る際に焦点を合わせるだろう。焦点を合わせたところははっきり見えるが、それ以外のところはぼやけて見えるだろう。ところがカメラで撮ったらすべてがはっきり見られる。
これらのおかげで私たちは何かを見聞きするときに分かりやすくて助かる。
だが、自分たちの生きている世界が物語だなんて信じられない、そう返す気持ちも分かる。
だが、法律も約束事も株式会社も因果関係も全て人間の考えた物語だ。
私は、人は物語をなぜ大好きなのか、信じるのか考えた。
それは人生に意味を見出すためだ。
まず、人生とは厄介なものである。人生に意味やテーマなどない。なぜなら、生まれてくる前に自分の人生の目標を立てる人間などいないからだ。
それでは、人はいつ人生に意味を見出すのだろうか。もちろん生きている間である。生きている間にこんな生き方をしたいなと思って生きるのだ。つまり、何かのために生きるのではなくて、生きていること、今の自分は正しかったと肯定するために人生の意味を見出すのだ。そのくせ、生きていることを肯定するために目標を持っているのに、目標がかなえられないと、生きていることを肯定できなくなるから、なかなか面倒くさい話だ。
この生きていること、今の自分を肯定するために生きていることは、理性的な行いではない。目的のために生きているのであって、生きるために目的を持っている、と。
だが、今の自分は正しくなかったと思いながら生きるよりは、今の自分は正しかったと生きるほうが健康的だし、面白い。
なぜ、我々は物語を好むのか。
誰だってつまらないものは嫌いだし、面白くて健康的なほうが好きだからだ。
■
私はこの間、手塚治虫の文庫版MWを読んだ。
まずは、あらすじから解説していこう。
幼いころ、ガス兵器「MW」に巻き込まれた結城と賀来、結城は復讐心、ガスを己のものにするためにあらゆる犯罪を行うピカレスクものである。
本作は読んで驚いた。
あの時代に同性愛を作品の中に取り込んだこと、賀来神父の罪の意識である。
賀来神父と結城は何度も関係をもつが、結城は複数の女と関係を持ち、冷徹に騙しまくる清々しい悪さだ。一方、賀来神父は結城と関係をもったことを告白し、罪の意識に囚われるも、誘惑には抗えない人物だ。
また、賀来神父は何度も悪行を繰り返す結城に対し法の裁きを求めるも、神父としての立場から「罪を救う」ため、何度も見逃し誘惑に抗えていないブレをもった人物像が好きである。
面白いので、一読をお薦めする。